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outdoor life  野根ミニ88カ所 (資料編)

野根ミニ88カ所(新四国八十八ケ所)(資料)

   ここでは、東洋町野根在住の郷土史家である原田英祐さんの野根ミニ八十八カ所に関する著作物の一部を紹介します。なお、詳しくは、原田英祐さん(電話:0887-28-1810)におたずね下さい。

《野根ミニ八十八カ所について》

   ミニ八十八カ所(正式には新四国八十八カ所と称す)は札所代わりに石仏を作って巡礼コースに配置したものです。一巡すれば四国巡礼同様とのこと。野根浦鉄屋シカの提唱で開設されました。

地蔵

@明治29年6月、札所代わりの地蔵が完成。寄付者は野根村全域のほか馬路村北川村や愛媛県の人の名前もあります。
A明治31年3月21日、浄財や出役を募って道筋を開き、地蔵を安置し、しるべ石や記念碑を建立して完成。
B地蔵は、高さ約45pほどの舟形で、右側に札所の番数と寺名。
   中央に本尊の半浮彫り。左側に本尊の名称。台石に寄進者名。
   (注記・札所代わりの石仏を地蔵と呼んでいます。厳密には石仏と呼ぶべきですが、本稿でも慣習上「地蔵」と書きます。)
Cコースはまず中村の宝寿寺境内に「一番札所霊山寺」地蔵。次は中村墓地の「まいば」と山道の境界に「二番札所極楽寺」地蔵。それから山道を登っていきます。道筋前半は中村の陽岳山の尾根づたい。後半の下りは宮の谷に沿って明徳寺の裏手の88番地蔵。最後に明徳寺(大師堂)が「納めの高野山」。
宝寿寺 D途中注意する所として、38番足摺山は「うちもどり」で、約200mほど本道から東へ、はずれています。66番奥の院は六十六番地蔵の後方約20mほどの所。また56番地蔵の後ろの岩は仏足石で通称「弘法大師の足型」があります。
E道しるべの標石として、ヨケの辻・福沢印刷所の角に1基、ここは四国八十八カ所道筋と新四国八十八カ所道筋の分岐点。38番足摺山は「うちもどり」で迷いやすく、その三差路に標石。明徳寺境内の石段右側に「このうへたいしどう」の標石。同所には新四国八十八カ所開設記念碑や創設者法尼瑞恵の墓碑もあります。
明徳寺 F大正末期〜昭和初期頃、氏野泰山が本物の四国八十八カ所を回って、霊場の土を持ち帰り、地蔵の地下にうずめました。この人は行者・武道家で、全国行脚の途上、野根にとどまって向中村の庚甲堂の再建や、野根の若者に柔道などを教えた人。昭和11年没。白小石六部塚の右側に高さ約120pの自然石の墓碑「哲慶泰山居士」とあります。
G戦後、この新四国八十八カ所は、大寺作一郎さんなど名留川大師講や、真砂瀬川口の大師講の人々によって復旧されました。その後、野根史談会も加わって、維持活用がはかられてきました。現在はミニ八十八カ所保存会が結成されています。
H東洋大師の呼称で知られる四国八十八カ所の番外札所明徳寺は野根の町はずれ、宮ノ谷の西側にあります。厳密には「弘法大師堂」と「明徳寺」が集合したものです。
戦国時代、この地には普門寺があり、それが生見へ移転したのち、観音寺が野根浦から移転。続いて、弘法大師堂も野根川西岸の夫婦岩付近から移転。それは古記録によると承応2年(1653)から貞亨4年(1687)の間でした。
地蔵 I明治初年の廃仏毀釈で観音寺は廃絶。弘法大師堂も放置されていたが、鉄屋シカ(法尼瑞恵)により明治33年12月に弘法大師堂を再建。これにより2年前に新四国八十八カ所(現在はミニ八十八カ所と称す)が開設されています。
J享禄年間(西暦1530頃)から中村にあった明徳寺は、昭和21年12月21日の南海大地震で堂宇が倒壊し、現在地すなわち観音寺跡地に移転。その後、檀家が分裂し、明徳寺にとどまった組と、中村の跡地に宝壽寺を再建した組とに分かれました。


《ミニ八十八カ所保存活動の歴史について》

   野根ミニ八十八カ所(新四国八十八カ所)は明治31年に開設されました。賛同者は旧野根村全域のほか、北川村の安倉、菅ノ上、弘Pなど。地蔵の寄進者には馬路村魚梁瀬や三津浜(松山市三津)の人まで含まれています。
   池には江戸時代に観音寺と大師堂とがあったが、明治初年の廃仏毀釈によって廃絶しました。明治33年に鉄屋シカの尽力によって大師堂が再建され、大正5年11月22日に高野山大師協会野根支部(弘法大師講)が、大師堂に設立されました。
   いっぽう真砂瀬には江戸時代の玉泉寺が明治初年の廃仏毀釈によって廃絶したままだったので、こちらにも高野山大師教会玉泉支部が設立されました。この2つの大師教会が主体となって、太平洋戦争の頃までミニ八十八カ所の保存活動を続けていたようです。
   昭和21年末に中村にあった明徳寺が南海地震で倒壊し、池に移転してきて大師堂と合併し、現在の明徳寺となりました。その後、中村の明徳寺跡に宝寿寺が建立されました。真砂瀬の玉泉支部は昭和21年11月10日に玉泉寺として再興されました。
   戦後は旧野根町内の真言宗寺院、真砂瀬の玉泉寺、名留川の法喜院、中村の宝寿寺、池の明徳寺などに大師講が結成され、ミニ八十八カ所の保存活動がなされてきたようです。しかしそれも時には途絶えたりしていました。
   昭和40年代になると、真砂瀬、川口、名留川などの大師講メンバーが保存活動を再開するようになり、昭和50年代には野根史談会が、多くの会員と寄付金を集めて、保存活動の主体となりました。しかし、現在は史談会の活動が休止中のため、平成9年に「ミニ八十八カ所保存会」が結成され、保存活動を行うようになっています。
   *平成27年に「ミニ八十八カ所保存会」は解散されました。

野根史談会
ミニ八八ヵ所巡り・野根史談会・宝寿寺境内にて、昭和53年
野根史談会
ミニ八八ヵ所巡り・野根史談会・明徳寺門前にて、昭和53年
野根史談会
ミニ八八ヵ所巡り・野根史談会・途中休憩・昭和53年
野根史談会
ミニ八八ヵ所巡り・野根史談会・途中休憩・昭和53年
ミニ八八ヵ所保存会
ミニ八八ヵ所の道整備・ミニ八八ヵ所保存会。平成18年3月19日
ミニ八八ヵ所保存会
ミニ八八ヵ所の道整備・ミニ八八ヵ所保存会。61番地蔵にて・平成18年3月19日

(2018年6月16日−imoto)

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